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企画紹介

高橋是清邸内展示
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高橋是清(21歳)と妹かね 1875年(明治8)
江戸東京博物館 所蔵

高橋是清邸内展示
「幼少期から
ペルー銀山開発まで」


5月13日(火)~8月31日(日)
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江戸東京たてもの園のセンターゾーンには高橋是清邸の主屋と玄関が移築復元されています。高橋是清は1899年(明治32)、赤坂表町(現在の港区赤坂)の武家屋敷跡の土地を購入し、古い建物に住みながら、総栂普請の家を建築し、1902年(明治35)に竣工しました。2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11)の二・二六事件の現場となりました。是清の死後、遺族らによって土地と建物は東京市に寄贈され、邸宅跡地は記念公園に、邸宅の主屋と玄関は多磨霊園に移築されて、休憩所「仁翁閣」として使われました。1945年(昭和20)、東京大空襲により、邸宅跡地は被災しましたが、多磨霊園にあった仁翁閣は焼失を免れ、明治時代の建築を今に伝えています。1階の展示コーナーでは、是清の生涯を、年代ごとに区切ってご紹介しています。今回は、幼少期から、35歳で農商務省における特許局長のキャリアを捨てて、ペルー銀山の開発に人生を懸ける頃までを、江戸東京博物館所蔵の関連資料等により、ご紹介いたします。
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第1章

洋学修行時代

高橋是清は、1854年(安政元)、幕府の御用絵師の子として生まれますが、まもなく仙台藩足軽高橋家へ里子に出され、芝愛宕下の仙台藩中屋敷足軽長屋で育ちます。1864年(元治元)、仙台藩の命により、同じく足軽の子弟、鈴木六之助(知雄)とともに洋学(英語)修行のため、横浜の太田町に住み、外国人居留地に開講したばかりのヘボン塾に通ってヘボンの妻クララから英語の手ほどきをうけます。その後、勝海舟の長男小鹿のアメリカ留学の船に同行する機会を与えられ、横浜で手広く商売を行っていたアメリカ人ヴァン・リードの実家(サンフランシスコ)へ向かいます。
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「御用港横浜之全図」部分
1860年(万延元) 橋本貞秀/画 
江戸東京博物館 所蔵

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第2章

文部省通訳~共立学校校長まで

是清は、渡航先のアメリカで苦労を重ね、1868年(明治元)、帰国しました。明治維新の世となっており、仙台藩は賊軍のため、苦労しましたが、森有礼の書生となり、大学南校、唐津藩の英語教師を経て1873年(明治6)、文部省お雇い外国人デイビッド・モルレー博士の通訳を務めました。

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『和英語林集成』初版 ロンドン版
1867年(慶応3)J.C.ヘボン/編
江戸東京博物館 所蔵

ヘボンが来日から7年かけて作り上げたた日本最初の和英辞書。明治期を通じて判を重ねるベストセラーでしたが、当時、外国人は日本の法律によって版権を得ることができませんでした。モルレーの通訳時代(1874年・明治7年)、モルレーのもとに本書再販時の版権についてヘボンが相談に来たことをきっかけに、是清は発明や商標が版権とともに保護されるべき知的財産であることを知り、不平等条約改正とともに国内法の整備が急務であることを痛感します。その7年後、是清は農商務省に入り、商標登録と発明専売規則の作成に携わります。

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 共立学校校長時代 1878年(明治11)
後列右から横川慶太郎、鈴木知雄、高橋是清
江戸東京博物館 所蔵

神田淡路町の実業家茅野氏宅に寄留した是清は、隣に共立学校校舎があることを知り、廃校寸前と聞いて再興をはかるべく、24歳で校長に就任しました。洋学修行以来の親友で大学予備門教諭の鈴木知雄らの協力を得て、本科の他に予備門受験専門コースを設置するなどの工夫で学校経営に成功しました。是清は1891年まで校長を務めました。共立学校は1895年(明治28)、開成中学校に名を改めます。
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第3章
農商務省時代

1881年(明治14)、是清は農商務省に入って専売・商標登録保護の確立に専心し、1884年(明治17)に商標条例、翌年には専売特許条例が制定されました。各条例の交付に伴って開設された商標登録所、専売特許所とも是清が所長となりました。1886年には両者を合併して専売特許局に、さらに1887年末には農商務省の外局、特許局となり、是清は局長となりました。

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視察先のロンドンで(1886年・明治19)
江戸東京博物館 所蔵


1885年(明治18)秋、是清は、農商務省少書記官に昇任し、専売と商標保護について欧米の状況を視察する旅に出ました。かつての奉公先を巡った後、ワシントンで調査を行い、パリ、ロンドン、ベルリン、ハンブルグなど、特許制度調査や工場視察を精力的に行いました。翌年秋、帰国します。

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農商務省庁舎
1891年(明治24)竣工 新家孝正/設計
江戸東京博物館 所蔵


 1986年(明治19)、欧米の視察を終えた是清は、アメリカの特許院が、特許料や登録料を国の一般会計から独立させて発明の保護に使われていることを知り、日本の特許局も農商務省の外局として独立する必要性を説きました。そして、1987年(明治20)末、特許局は独立を果たしました。是清は、独立にふさわしい庁舎建設にも奔走しました。当時、農商務省管理の土地売却により得ることになった8万円の使途が省内で議論されたのをきっかけに、是清はこれを特許局庁舎建設費にあてることを主張します。ジョサイア・コンドルに設計を依頼し、弟子の新家孝正が設計したところ、建設費見積もり額は12万円(現在の約5億円~14億円)になったため、是清は大蔵大臣を説得して不足分4万円が補填されることとなり、京橋区木挽町に特許局庁舎の建設が始まりました。「東京見物に来た者が浅草観音の次に見物したいというような建物」を目指した壮大な庁舎は1891年(明治24)に竣工しましたが、前年、ペルー銀山開発の失敗によって是清が表舞台から去ると、特許局は内局に戻り、竣工時には、農商務省の庁舎となりました。
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第4章
ペルー銀山開発へ

特許局運営がようやく軌道にのろうとしていた頃、農商務省の同僚からペルー銀山開発の話を持ちかけられた是清は、最初は固辞しましたが、農商務大臣の了承を得て再度依頼されると、農商務省特許局長のポストを捨てて、ペルー銀山開発の先頭に立ちました。


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開発会社(日秘鉱業株式会社)
株金領収書と委任状 1889年(明治22)
江戸東京博物館 所蔵
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